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世界より:タイ・インド・オマーン柑橘探訪2018/2/7

和歌山の柑橘農家さんのところで時々、収穫の手伝いをしている。約50種類を育てているこちらの影響で、今回の旅先でも柑橘が気になってしまった。

<タイ>

タイの首都バンコクでは、大型ショッピングモールの酒屋さんで日本のみかんリキュールを見かけた。愛知の蒲郡産だ。

農家さんに、こんなの売ってたよとメッセージすると「蒲郡!かつて、我が産地と名古屋市場を争った場所…!」と返信があった。現在はハウスみかんにシフトしているらしい。安定供給が輸出につながっている。

バンコクでのバーテンダー経験がある友人のお兄さんによると、現在バンコクでは梅酒専門のバーもできるほど日本の甘いお酒の人気が高まっているそうで、ゆず酒、みかん酒など果物系のリキュールも扱う店が増えているとのこと。

<インド>

南インド最大の町・チェンナイのスーパーでは、
チャイニーズ・マンダリン。1kg約340円。

 

オレンジ・マルタ、1kg約111円。

 

カマラ・オレンジ。1kg約204円。

の三種類を見かけた。最初のマンダリンは温州みかんに似ていて、小さめでとても甘い。オレンジ・マルタはブラッドオレンジの一種で、アメリカ原産のようだ。

カマラ・オレンジはポンカンに近いように感じた。インドのウェブサイトをいろいろ見ていると、どうやら南インドでよく販売されているようだ。ポンカンの原産地はインドと言われている。さもありなん。

道端の屋台で、炭酸ドリンクに絞られるのはインディアン・スイート・ライム。

名前の通り、甘めで穏やかな酸味のライムだ。インド全域で見かける。

 

<オマーン>

現地でお世話になったガイドさんによると、夏にはオマーン・オレンジという柑橘が穫れるそうだ。緑色だが甘く、オレンジ系の風味とのこと。しかしオマーンには自然災害として洪水があるらしく、鉄砲水で畑がやられる。なかなか収穫量が安定せず、結果、輸入が増える。

そんなわけで、大型スーパーの柑橘コーナーが凄まじい。


アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパの各地から柑橘が集まっている。
同じ種類のオレンジやレモンでも、複数の国から輸入されている。

 

まず、マンダリンオレンジだけで4種類もある。

パキスタン産のマンダリンオレンジ、1kg約112円。
パキスタン人の出稼ぎ労働者がとても多いオマーンだが、生鮮食品の輸入もあるようだ。

 

エジプト産のマンダリンオレンジ、1kg約224円。
ものすごく色が濃い。

 

中国産のマンダリンオレンジ、1kg約281円。
色は黄色寄り。

町中を歩いていると、だいたい中国人かと聞かれた。
中国人観光客も多く、プレゼンスの大きさを感じる。

 

オーストラリア産のマンダリンオレンジ、1kg約451円。

 

パキスタン産とオーストラリア産では、値段は4倍も違う。
後者を買うのはいったいどういう人なのだろうか。
オマーンからの距離や関税のほかに、何が関係しているのだろう。
何も説明は買いていなかったが、オーストラリア産は有機栽培だったりするのだろうか?

 

次はネーブルオレンジ。これも2種類ある。

トルコ産のネーブルオレンジ、1kg約112円。

 

そしてスペイン産のネーブルオレンジ、1kg約169円。

 

レモンは3種類。

ベトナム産レモン、1kg約213円。

 

インド産レモン、1kg約224円。

 

距離だけでいうとインドのほうがオマーンに近いように思うが、他に何が値段に反映されているのだろう。

そしてスイートレモン。イランなどでも冬に販売されるという。中東では一般的な柑橘なのだろうか。
1kg約253円。

 

そのほか、グレープフルーツ。1kg約168円。

 

クレメンタイン。マンダリンの一種で、アルジェリアの孤児院の庭で発見されたらしい。
なんと1kg約639円。

 

南アフリカ産バレンシアオレンジ。1kg約156円。

 

以上、一軒のスーパーで見かけた柑橘だ。他のスーパーや市場に行けば、また違った場所からの輸入物があるかもしれない。日本には、エジプト産や南アフリカ産の柑橘はまず入ってこないだろう。とても興味深い。

同じ種類のものを、違う産地から仕入れるというのも興味深い。購入層の分断が歴然として見える。パキスタンやインドからの出稼ぎ労働者、フィリピンからの家事労働者、ベドウィン系オマーン人、東アフリカ系オマーン人、アラブ系オマーン人、外国人(インド系、中国系、ヨーロッパ系…)など、オマーンのコミュニティは明確に細分化されている。当然、それぞれの生活レベルや様式と商品産地は関係しているだろう。

 

以上は生鮮柑橘だが、オマーンではレモンをドライでも使うらしい。スパイスの市場で見かけた。

そのままおやつにしたり、料理やお菓子に使ったりするそうだ。手前の黄色いものがオマーン産レモン。奥の黒いものがイラン産とのこと。

オマーン産のほうが小袋で買えたので、少しだけ求めてみた。超ドライな分、味は濃い。オマーンでは、インドから入ってきた習慣で、牛乳とスパイス入りの甘い紅茶を飲む。そのお供に、このドライレモンはうってつけのように思われた。

その後、オマーンの農業について知りたくて調べていたら、こんな報告書を見つけた。
オマーンの農業・水産大学が2010年に行った、同国の果実栽培に関するワークショップの報告書だ。「乾燥地帯における柑橘栽培」という論文も掲載されている。読んでみようと思う。

岡本

(注)価格はすべて、こちらの通貨換算ツールを使って2018年2月7日付で日本円に換算し、四捨五入したもの。

いつかの日記:本は体を表す2018/1/30

福岡の小さな町に住んでいたことがある。まちづくりの中心人物のひとりである酒屋のご主人は本の好きな方で、店に本を置いたり、本の会を催したりしていた。

ある時、この会に誘っていただいた。読書好きの人達が「最近面白かった本」を持って集まり、紹介し合ったり、それをきっかけにして何にでも話を展開していくという会だという。

当時の職場に本の話ができる人がおらず寂しく感じていた私はとても嬉しく、参加させていただくことにした。

持っていく本は何冊でも良いという。選ぶ作業も楽しい。

場所は酒屋さんの一角で、大きな一枚板のテーブルがある。
コーヒー好きな人が多く、野点ならぬ野コーヒーのように、毎回一式持参してきていた人もいた。
もちろん、酒屋さんなので時にはそちらの栓も開けられる。

参加者は、木工作家、映画監督、絵本屋さんや新聞記者さんなど。まったく異なるジャンルの人達なので、どんな本を持ってくるかお互い想像もつかない。

初めて聞く出版社、どこから探してきたんやというような本、よく見つけたなというような古書や写真集。ベストセラーから奇書までさまざまな本が次々と紹介される。話は尽きない。一冊の紹介の「参考図書」と称し、延々とあれこれの本が紐付けられてゆく。

酒屋さんの営業が終了する20時から三々五々集まってきて、解散はいつも日付が変わってから。名残惜しく、未練がましく翌日、仕事のあとに酒屋さんに寄ってみたりする。

仕事から離れて、純粋に好きなものについて人と話ができる唯一の場。当時の自分にとっては、救いのような場所だった。

私がその町を離れてからも、本の会は続けられている。先日、酒屋さんから連絡があった。町の図書館で、本の会のおすすめ本が紹介されることになった。ついては、コメントとともに何冊か推薦してもらえないか。

他の方たちのおすすめ本リストも一緒に送られてきた。
この本は秋頃に木工作家のSさんがものすごく読み込んでいた本だなあ。
これは絶対、絵本屋Hさんのおすすめ。
これは酒屋のKさんが熱く語っていたやつだ。

だれがどれを選んだのかすぐにわかる。
著者でもないのに – あるいはないからこそ – 人柄が選び方に出る。
不思議なものだ。
読んだことがない本でもタイトルを見たら、この人のセレクトかなぁと検討がつく。

とてもうれしかった。
リストを見ながらバランスを考え、3冊選んだ。
今、推薦文を書いている。

『家守綺譚』梨木香歩(新潮文庫)
『チンギス・ハンの墓はどこだ?』白石典之(くもん出版)
『妄想ニホン料理』NHK「妄想ニホン料理」制作班(KADOKAWA)

岡本

いつかの日記:サーシャとロシア語のお墓2018/1/21

イスラエル人の友人がいる。サーシャだ。日本好きで、時々来日している。

ある時、サーシャと池袋の近くにある鬼子母神を散歩していた。お寺としての雰囲気の良さに加えて、境内にある駄菓子屋を見せたかったのだと記憶している。彼は初めて見る駄菓子屋をとても喜んでくれた。

お菓子を食べながらぶらぶら歩いていると、墓地に出た。荒川霊園だ。

それまで日本のお墓を見たことがなかった。お墓の形や、意味や、書かれていることなど、興味を持って、いろいろと質問してくる。

サーシャはユダヤ人だ。「僕は無宗教だけどね」といいながらも墓地に関心を示すところ、やはり宗教が身近にある生活をしてきているのだろう。

突然、彼が「僕これ読める!」と叫んだ。

それは十字架のあるお墓。普通の十字架ではなく、もう一本、斜めの横棒が入っている十字架。つまり、ロシア正教の十字架だ。

刻まれているのはキリル文字。ロシア語などで使われる文字である。

「え…なんで?これロシア正教のじゃない?サーシャロシア語読めるの?」

「僕はロシア生まれなんだよ。9歳までいて、イスラエルに移住したんだ」
「イスラエル建国の時、父親が愛国心を起こしてね。シオニズム運動に呼応したんだよ」
「世界中に散らばっていたユダヤ人がイスラエルに向かった。ロシアからも大勢ね。僕ら一家もそうさ」

「僕の名前、サーシャだけど、これはロシア語の名前。正式にはアレクサンドロで、サーシャはロシア流の愛称なんだ」

ああ、彼は歴史を生きてきたんだ。世界史の教科書でしか見たことがなかった、イスラエル建国という出来事。これを、人生の一大転換期としてきた人が目の前にいる。

歴史は現実に起こったことで、それは机上で感じるよりずっと最近のことなのだ。サーシャが生きている限り、このイスラエル建国という史実は死ぬことがなく、彼に次の世代ができたらまたそれは受け継がれていく。過去になる歴史はない。

「どういう人のお墓か、書いてある?」

「えーと、ロシア人の神父さんのお墓みたいだよ。日本で布教して、ここで亡くなったんだね」

「見て、ここに年号があるよ。こんな早い時期から、はるばる来日して布教していた人がいたんだね」

「なんだかしみじみするね。それにしても、久しぶりにロシア語を読んだよ。イスラエルはヘブライ語だしね。だいたいは合ってると思うんだけど(笑)」

「まぁ、間違ってても私にはわかんないけどね(笑)」

どんな人にも歴史がある。どんな選択をしてこようと、それは世界の流れとつながっているのだ。

    (ポーランドのユダヤ人墓地)

岡本

いつかの日記:異国で逝った友人のこと2018/1/20

友人が異国で逝ってしまった。

アフリカで帰らぬ人となった。

彼は私の青年海外協力隊の同期である。

協力隊は年に4回派遣があるが、その一回一回は「隊次」と呼ばれる。ひとつの隊次は更に、派遣国によって長野と福島の訓練所に分かれ、70日間缶詰で語学などの特訓を受ける。いろんな国に行く人達が共同生活を送り、励まし合いながら渡航への準備を進めるのだ。

派遣人数は、隊次によって幅がある。一般的に、春に訓練を始める1次隊が最も多く、福島訓練所の場合は200人近くが集まる。反対に、最も少ないのは冬に訓練する隊次である。

そのなかでも、更に歴代最小人数だったのが私達だった。安達太良山の麓で、雪に閉ざされた生活をともに乗り越えた私達の隊次はたった56人しかいない。

亡くなった彼 – G – はアフリカ、私はアジアと行き先は違うが、56人で70日間過ごすということに、地域での分類はあまり意味がない。新しい言語を短期間で習得せねばならない必死さが共通点である。

Gは男性としてはとても小柄だったが、とてもお洒落で、よいサイズ感のものを上手に着こなしていた。聞けば女性物の古着などを探しているということで、その工夫にみんなで感心したものだった。

南国出身の明るいGは皆に好かれた。フットワーク軽く、いつも人を笑わせた。普通にしてれば男前なのに、写真写りはいつも変顔だった。訓練終了日に、ハンカチをプレゼントしてくれた優しい人だった。

なぜか、気をつけろと言われた病気にいつもいち早くかかった。訓練中にインフルエンザになった時には寮の使われていない棟に一週間隔離され、ベッドからSkype越しに授業に参加していた。アフリカでもよく病気にかかったが、幸い同じ国に派遣された同期に薬剤師がいたため、彼の命は守られていた。

協力隊の任期終了後、Gともう一人の同期 – M – は、派遣先と同じ国で事業を展開している日本企業に就職し、再び現地に赴任した。

事故は起こった。

現代日本では起こらないような事故で、彼は突然、一人逝ってしまったのである。

Gの死を私達に知らせてくれたのはMだった。彼は、アフリカから日本までGを連れて帰ってきてくれた。気丈に状況を逐一報告してくれ、いろいろな手配をしてくれた。

訓練の時から今に至るまでずっと一緒だったGを急に失い、一体どういう気持ちでMはアフリカからの長旅をしてきたのだろうか。一緒に海外生活へのスタートを切った2人。Gは逝って航空貨物となり、Mは生きて乗客となった。「搬送先」はGの実家。なんという心労。

Mが一度だけ、同期に報告をしてくれている時に「あああ」と書き込んだ。すぐに消去されたが、私はその一瞬を見てしまった。そのあと、書き込みは「前に進もうとしている」となった。

Mが投稿してくれたGの遺影は男前だった。

岡本

いつかの日記:折り合いの料理2018/1/19

Facebookをスクロールしていて、ふとこの記事が目に入った。

‘Bollywood Kitchen’: A Celebration Of Indian-American Cuisine

執筆者はインド系アメリカ人二世。Sri Raoという同じくインド系二世の映画監督が出版した “Bollywood Kitchen” という本を紹介しながら、その内容に筆者の幼少時代の思い出を重ねている。

筆者はRaoの「母親達が作るインド料理と、たまに見るインド映画に、自分が知ることのない母国をみていた」という言葉に自分を重ねる。その料理が、あくまで「アメリカで手に入る食材で作れるよう工夫を重ねたもの」という部分になおさらうなずく。例に挙げられているのは、キーマカレー用のひき肉を得るためにハンバーガー用の肉を買い、ほぐして使っていたというエピソード。実に涙ぐましい。

ここまで読んで、私にもよみがえる記憶があった。

1990年代後半、父の仕事で私達一家はドイツに住んでいた。ホテル日航のある町で、その周辺には日本食レストランや食材、本を扱う店が数件営業していた。現在では考えられない商売だが、当時は日本のテレビ番組の録画を3週間遅れで仕入れていたビデオレンタル屋が繁盛していた。私は「ロングバケーション」を、この店で借りて見た。

食生活も、今でこそヨーロッパ有数のラーメン激戦区となるほどの根付き方だが、当時は日本人が多い地域とはいえまともな醤油ですら手に入りにくかったことを覚えている。

そんななか、時折キッシュなどのドイツ料理も食卓に並んだものの、母の料理はやはり日本食だった。思い返せば、大根もごぼうもサツマイモもない中で、よく毎日のごはんとお弁当を仕立ててくれていたものだと思う。台所も、ガスはなく電気コンロのみで、住み始めた頃の母は火加減に苦労していた。

一番の高級食材は冷凍うどん。たまに母が町に出かけた折、日本食材屋で買ってきてくれていたが、せっかく行っても売っていない日もあったというのがそのスペシャル感を増幅させていた。今でも実家の冷凍庫に冷凍うどんが必ず入っているのは、きっとこの頃の名残りだろう。

うどんを自由に使えなかった母が編み出したメニュー、それは焼きうどん風スパゲッティだった。焼きうどんの麺をスパゲッティに変えたものである。和えられたり煮られたりではなく、炒められるスパゲッティというのは当時の私には新鮮で、またソースを吸収しない麺が不思議な食感を作り出した。

これを初めて食べた時、自分は確かに母国から遠く離れたところにいるのだと小学生ながらに実感した。ドイツのあっという間に固くなる黒パンを削って母が作っていたパン粉とともに、私の記憶に最も色濃いドイツでの母の料理である。

3ヶ月遅れで父が持って帰ってくる日経新聞を片手に、3週間遅れの日本ドラマを見ながら焼きスパゲッティを食べ、日本のイメージを確かめる日が確かに私にもあった。

その後、2度の海外在住を経験した。今思うことは、YoutubeとKindleがあり、日本の食材の流通が増えた今でもなお、”Bollywood Kitchen” は世界中で健在だということである。

(モンゴルの田舎で作ったカレー。塊肉しか買えないので、細切れにするのが大変)

岡本

世界より:チャイ売りのおじさん2018/1/17

経由地のインド・チェンナイで、宿の斜め向かいにチャイ屋さんがあった。おじいさんに近いような年齢の男性と、10代後半ぐらいの青年がやっている。

チャイを淹れるのはおじさん。片目が白内障のようだが、見事な手際で淹れている。青年は、注文を取ったり、横でクッキーを売ったりしている。

最初にここに行ったのは、飛行機のチケットを印刷したくて入った近所のネットカフェで、お釣りがないからここで紙幣を崩してもらってこいと言われたため。

ひっきりなしに客が入っている店で、何か買うわけでもないのに面倒を頼んでもいいのだろうか。

こわごわ行って頼んでみると、作業中のおじさんが無言でこちらを一瞥し、待てと静止するような手つきをした。しばらく待っていると、チャイを淹れ終わったおじさんはまた無言で私の手から紙幣を取り、ささっと細かいのを数えて渡してくれた。ありがとうという言葉にも無表情のまま、無言で頷いただけだった。

夕食後、この店に入った。チャイを注文する。小さめサイズ、一杯10ルピー(19円)。青年がクッキーをすすめてくる。1枚2ルピー(4円)。美味しそうだが、細かいコインを持っていない。そのように断ると、チャイを淹れ終わったおじさんが無言でクッキー棚に行き、2枚を瓶から抜き取って、新聞紙に乗せて渡してくれた。

びっくりしておじさんを見ると、食べろと手を差し出す仕草をし、お金はいいと首を振っている。手を合わせて感謝し、ありがたくいただいた。

クッキーをお供にチャイを飲み、包んでいた新聞紙を眺める。選挙の記事だろうか、人の顔写真とプロフィールのようなものがたくさん載っている。

突然、おじさんが新聞を差して「マラヤーラム」と言った。おじさんの顔を見ると、今度は「ケララ」と言った。

この新聞は、チェンナイを含むタミル・ナードゥ州で一般的なタミル語ではなく、隣のケララ州で話されているマラヤーラム語で書かれているのだ。おじさんはケララ出身なのだ。

「ケララ出身なのですね!」と言うと頷いて、初めて少し微笑んでくれた。南インド最大の都市・チェンナイの中心部で、チャイ屋を繁盛させているおじさん。ケララから一人出てきて、店を構えるまでになったのだろうか。マラヤーラム語の新聞を読んで故郷を思い出しつつ、都会で稼いでいる。おじさんはたまには帰省したりするのだろうか。ケララは海に面した、緑溢れる、美しい土地である。

岡本

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世界より:潮流の意味2018/1/16

オマーン滞在中宿泊していた家のリビングには大きなテレビがあり、終日CNNやBBCが流れていた。

BBCはイギリス発信なので、当然ヨーロッパのニュースが多い。天気予報も、ヨーロッパ全域が含まれる。

何気なく天気予報を見ていると、ヨーロッパとアフリカ北部のその日の海流の図が示され、次いで雲の動き、そして気温が映し出された。

私は衝撃を受けた。

地域感のスケールが違う。とても広い。
大きな潮の流れがどう小さな海流につながり、それぞれの天気と関係していくか、はっきりと説明されている。全体と細部がつながっている。

潮流は流行ではなく、細部にまで影響を与えていく大きな流れなのだ。

当たり前のことかもしれないが、久しぶりにアジアから出て、忘れていたその当たり前にひとつずつ気付かされている。

岡本

世界より:オマーンの外国人労働者達2018/1/15

南インドのチェンナイからオマーン行きの飛行機に乗った。乗客はほとんどがインド人男性。びっくりするような性比だ。

ドーハやドバイもインド人労働者が多いから、オマーンもそうなのかなぁと漠然と思っていたら果たしてそうだった。

チェンナイから3時間程で、首都のマスカットに着く。私達のようにオン・アライバルでのビザ申請に向かう乗客はわずか。インド人達は皆、ずらっと「事前申請ビザ」に並ぶ。カウンターの横には、オマーンの労働省の窓口が併設されていた。英語名は “Ministry of Manpower”。ストレートだ。

宿泊先のオーナーによると、オマーンの人口430万人のうち、半分が外国人。その75%がインド人だそうだ。単純計算、約161万人のインド人がオマーンにいることになる。パキスタン人やバングラデシュ人がそれに続く。イスラムコミュニティは強い。

もちろん貿易などビジネスの人達もいるが、大多数は肉体労働の労働者。冬のマスカットは朝夕涼しく過ごしやすいが、午後は気温が上がり、日差しも強い。そんな時間帯に屋外で働いているのは、すべて外国人労働者である。真夏は50℃に届く日もあるらしい。暑い国出身の彼らには耐えられるのだろうか。

オマーンを出る時、空港にいた乗客はまた、ほとんどが労働者の男性達だった。電光掲示板に表示されている出発便の行き先は、中東と南アジアが半々。デリー、ムンバイ、ダッカ、アーメダバード。

皆、ビニールでぐるぐる巻きにした大きな箱を携えている。

家電だろうか。

すべての荷物に名前、電話番号と、マスカットからの経由地と最終行き先を大きく書いた紙を貼っている。ムンバイから南のマドゥライ、デリーから北のアムリトサル。あの人とあの人は同じ村出身なのだな。助け合っている。皆搭乗手続きに慣れておらず、時間がかかっている。

チェックインカウンターの男性は、インド人に見えるが労働者に高圧的だ。英語でしか話さず、わからない労働者達はおどおどしている。質問に “Yes, sir” と答える。インドの身分社会が、そのまま外国に持ち出されている。

無事飛行機に乗り込んだ男性達は皆とても陽気で賑やかで、嬉しそうで、楽しそうだった。故郷で英気を養って、またオマーンへ戻ってくるのだろう。ムンバイまで2時間半のフライト。彼らにとって、オマーンは近くて遠い。

ドーハでもドバイでもアブダビでも、同様のことは起こっているのだろう。東京のコンビニ店員が外国人留学生で成り立っているように、もはやこれらの国は外国人労働者なしにはやっていけない。しかし乗り継ぎや観光客も多いこれらの空港では、私は外国人労働者のことなど考えてもみなかった。経由地にならない、小さな国オマーン。終着地だからこそ、見えた現実であった。

岡本

世界より:バンコクで梅酒2018/1/14

経由地のバンコクで、現地駐在中の後輩と会った。子連れで来ているので、行き先は畳のある日本食屋。タイ人や韓国人客も多くて賑やかだ。メニューをめくっていると、あるページで手が止まった。

梅酒。

今やUmeshuとして、世界中で知名度を上げてきている梅酒。海外であっても、和食屋にないはずがない。

海外で販売されている梅酒の多くはCHOYAなど、日本からの輸入品だ。当然といえば当然である。

しかし、この店の梅酒は違った。

少し前に、和歌山の知り合いの農家さんから、青年海外協力隊で、和歌山からタイに梅栽培の指導に行った若い農家さんがいるという話を聞いていた。

タイ北部、ミャンマーとの国境地帯は、アヘンの栽培地域「魔の三角地帯」として、長い間悪名高かったところだ。ここで、アヘンの代わりの農作物を…ということで、梅栽培に白羽の矢が立ったらしい。そして、和歌山は日本一の梅産地である。

このKachaという梅酒が、まさにそれなのだろう。

後輩に、飲んだことがあるか聞いてみた。

「よく飲みますよ、甘めでおいしいです。輸入物よりだいぶ安いですしね」

日本の技術が、必要とされる地域に根付いて、地域と日本に還元されている。和歌山在住者としても、同じ青年海外協力隊出身者としても、私は静かな感動を覚えた。

岡本

保存保存

世界より:セバルの家の間借り人達2018/1/13

オマーンに来ている。Airbnbを使い、首都マスカットに滞在している。

いろいろと言われることもあるが、Airbnbは、面白い人達と出会う手段と考えるととても使い手のあるウェブサービスだ。世界各地の素敵な人々の家に間借りできるなんて、想像しただけで垂涎ものである。

これまでもこのサービスを使って各地に宿泊してきたが、マスカットではとても面白い体験をしている。

大家さんのセバルは、ウズベク系のロシア人。石油の仕事をしている。マスカットの閑静な住宅街に、家を持っている。

花は奥さんが育てたとのこと。子どもが独立して空いた3部屋を、Airbnbを使って貸している。

住み込みお手伝いさんのヴィヴィはフィリピン人。オマーン在住30年になるそうだ。

セベルの家は、玄関を開けるとすぐにリビングがある。朝食を摂る人、お茶を飲む人、外出する人、すべてこのリビングを通る。

3部屋は満室。

2階には私達日本人と、ルツェルンからのスイス人夫婦。奥さんはスイス育ちのイエメン人で、夫婦はドイツ語で会話している。旦那さんがアラビア語を集中的に学びたいと、3ヶ月の予定でオマーンに滞在中だそうだ。

3階にも一部屋あり、そこにはオマーン人の青年が泊まっている。地方在住だが、近々首都で重要な試験を受けるらしく、静かな環境で集中的に勉強したいとセベルの家を選んだそうだ。

3組それぞれ行動範囲や時間帯が違うが、ヴィヴィが朝食を作ってくれる時間が決まっているので、リビングで顔を合わせる。

そんなわけで、ロシア人、フィリピン人、スイス人、イエメン人、オマーン人と日本人が同居する不思議な生活がオマーンで発生している。