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いつかの日記:本は体を表す2018/1/30

福岡の小さな町に住んでいたことがある。まちづくりの中心人物のひとりである酒屋のご主人は本の好きな方で、店に本を置いたり、本の会を催したりしていた。

ある時、この会に誘っていただいた。読書好きの人達が「最近面白かった本」を持って集まり、紹介し合ったり、それをきっかけにして何にでも話を展開していくという会だという。

当時の職場に本の話ができる人がおらず寂しく感じていた私はとても嬉しく、参加させていただくことにした。

持っていく本は何冊でも良いという。選ぶ作業も楽しい。

場所は酒屋さんの一角で、大きな一枚板のテーブルがある。
コーヒー好きな人が多く、野点ならぬ野コーヒーのように、毎回一式持参してきていた人もいた。
もちろん、酒屋さんなので時にはそちらの栓も開けられる。

参加者は、木工作家、映画監督、絵本屋さんや新聞記者さんなど。まったく異なるジャンルの人達なので、どんな本を持ってくるかお互い想像もつかない。

初めて聞く出版社、どこから探してきたんやというような本、よく見つけたなというような古書や写真集。ベストセラーから奇書までさまざまな本が次々と紹介される。話は尽きない。一冊の紹介の「参考図書」と称し、延々とあれこれの本が紐付けられてゆく。

酒屋さんの営業が終了する20時から三々五々集まってきて、解散はいつも日付が変わってから。名残惜しく、未練がましく翌日、仕事のあとに酒屋さんに寄ってみたりする。

仕事から離れて、純粋に好きなものについて人と話ができる唯一の場。当時の自分にとっては、救いのような場所だった。

私がその町を離れてからも、本の会は続けられている。先日、酒屋さんから連絡があった。町の図書館で、本の会のおすすめ本が紹介されることになった。ついては、コメントとともに何冊か推薦してもらえないか。

他の方たちのおすすめ本リストも一緒に送られてきた。
この本は秋頃に木工作家のSさんがものすごく読み込んでいた本だなあ。
これは絶対、絵本屋Hさんのおすすめ。
これは酒屋のKさんが熱く語っていたやつだ。

だれがどれを選んだのかすぐにわかる。
著者でもないのに – あるいはないからこそ – 人柄が選び方に出る。
不思議なものだ。
読んだことがない本でもタイトルを見たら、この人のセレクトかなぁと検討がつく。

とてもうれしかった。
リストを見ながらバランスを考え、3冊選んだ。
今、推薦文を書いている。

『家守綺譚』梨木香歩(新潮文庫)
『チンギス・ハンの墓はどこだ?』白石典之(くもん出版)
『妄想ニホン料理』NHK「妄想ニホン料理」制作班(KADOKAWA)

岡本

いつかの日記:サーシャとロシア語のお墓2018/1/21

イスラエル人の友人がいる。サーシャだ。日本好きで、時々来日している。

ある時、サーシャと池袋の近くにある鬼子母神を散歩していた。お寺としての雰囲気の良さに加えて、境内にある駄菓子屋を見せたかったのだと記憶している。彼は初めて見る駄菓子屋をとても喜んでくれた。

お菓子を食べながらぶらぶら歩いていると、墓地に出た。荒川霊園だ。

それまで日本のお墓を見たことがなかった。お墓の形や、意味や、書かれていることなど、興味を持って、いろいろと質問してくる。

サーシャはユダヤ人だ。「僕は無宗教だけどね」といいながらも墓地に関心を示すところ、やはり宗教が身近にある生活をしてきているのだろう。

突然、彼が「僕これ読める!」と叫んだ。

それは十字架のあるお墓。普通の十字架ではなく、もう一本、斜めの横棒が入っている十字架。つまり、ロシア正教の十字架だ。

刻まれているのはキリル文字。ロシア語などで使われる文字である。

「え…なんで?これロシア正教のじゃない?サーシャロシア語読めるの?」

「僕はロシア生まれなんだよ。9歳までいて、イスラエルに移住したんだ」
「イスラエル建国の時、父親が愛国心を起こしてね。シオニズム運動に呼応したんだよ」
「世界中に散らばっていたユダヤ人がイスラエルに向かった。ロシアからも大勢ね。僕ら一家もそうさ」

「僕の名前、サーシャだけど、これはロシア語の名前。正式にはアレクサンドロで、サーシャはロシア流の愛称なんだ」

ああ、彼は歴史を生きてきたんだ。世界史の教科書でしか見たことがなかった、イスラエル建国という出来事。これを、人生の一大転換期としてきた人が目の前にいる。

歴史は現実に起こったことで、それは机上で感じるよりずっと最近のことなのだ。サーシャが生きている限り、このイスラエル建国という史実は死ぬことがなく、彼に次の世代ができたらまたそれは受け継がれていく。過去になる歴史はない。

「どういう人のお墓か、書いてある?」

「えーと、ロシア人の神父さんのお墓みたいだよ。日本で布教して、ここで亡くなったんだね」

「見て、ここに年号があるよ。こんな早い時期から、はるばる来日して布教していた人がいたんだね」

「なんだかしみじみするね。それにしても、久しぶりにロシア語を読んだよ。イスラエルはヘブライ語だしね。だいたいは合ってると思うんだけど(笑)」

「まぁ、間違ってても私にはわかんないけどね(笑)」

どんな人にも歴史がある。どんな選択をしてこようと、それは世界の流れとつながっているのだ。

    (ポーランドのユダヤ人墓地)

岡本

いつかの日記:異国で逝った友人のこと2018/1/20

友人が異国で逝ってしまった。

アフリカで帰らぬ人となった。

彼は私の青年海外協力隊の同期である。

協力隊は年に4回派遣があるが、その一回一回は「隊次」と呼ばれる。ひとつの隊次は更に、派遣国によって長野と福島の訓練所に分かれ、70日間缶詰で語学などの特訓を受ける。いろんな国に行く人達が共同生活を送り、励まし合いながら渡航への準備を進めるのだ。

派遣人数は、隊次によって幅がある。一般的に、春に訓練を始める1次隊が最も多く、福島訓練所の場合は200人近くが集まる。反対に、最も少ないのは冬に訓練する隊次である。

そのなかでも、更に歴代最小人数だったのが私達だった。安達太良山の麓で、雪に閉ざされた生活をともに乗り越えた私達の隊次はたった56人しかいない。

亡くなった彼 – G – はアフリカ、私はアジアと行き先は違うが、56人で70日間過ごすということに、地域での分類はあまり意味がない。新しい言語を短期間で習得せねばならない必死さが共通点である。

Gは男性としてはとても小柄だったが、とてもお洒落で、よいサイズ感のものを上手に着こなしていた。聞けば女性物の古着などを探しているということで、その工夫にみんなで感心したものだった。

南国出身の明るいGは皆に好かれた。フットワーク軽く、いつも人を笑わせた。普通にしてれば男前なのに、写真写りはいつも変顔だった。訓練終了日に、ハンカチをプレゼントしてくれた優しい人だった。

なぜか、気をつけろと言われた病気にいつもいち早くかかった。訓練中にインフルエンザになった時には寮の使われていない棟に一週間隔離され、ベッドからSkype越しに授業に参加していた。アフリカでもよく病気にかかったが、幸い同じ国に派遣された同期に薬剤師がいたため、彼の命は守られていた。

協力隊の任期終了後、Gともう一人の同期 – M – は、派遣先と同じ国で事業を展開している日本企業に就職し、再び現地に赴任した。

事故は起こった。

現代日本では起こらないような事故で、彼は突然、一人逝ってしまったのである。

Gの死を私達に知らせてくれたのはMだった。彼は、アフリカから日本までGを連れて帰ってきてくれた。気丈に状況を逐一報告してくれ、いろいろな手配をしてくれた。

訓練の時から今に至るまでずっと一緒だったGを急に失い、一体どういう気持ちでMはアフリカからの長旅をしてきたのだろうか。一緒に海外生活へのスタートを切った2人。Gは逝って航空貨物となり、Mは生きて乗客となった。「搬送先」はGの実家。なんという心労。

Mが一度だけ、同期に報告をしてくれている時に「あああ」と書き込んだ。すぐに消去されたが、私はその一瞬を見てしまった。そのあと、書き込みは「前に進もうとしている」となった。

Mが投稿してくれたGの遺影は男前だった。

岡本

いつかの日記:折り合いの料理2018/1/19

Facebookをスクロールしていて、ふとこの記事が目に入った。

‘Bollywood Kitchen’: A Celebration Of Indian-American Cuisine

執筆者はインド系アメリカ人二世。Sri Raoという同じくインド系二世の映画監督が出版した “Bollywood Kitchen” という本を紹介しながら、その内容に筆者の幼少時代の思い出を重ねている。

筆者はRaoの「母親達が作るインド料理と、たまに見るインド映画に、自分が知ることのない母国をみていた」という言葉に自分を重ねる。その料理が、あくまで「アメリカで手に入る食材で作れるよう工夫を重ねたもの」という部分になおさらうなずく。例に挙げられているのは、キーマカレー用のひき肉を得るためにハンバーガー用の肉を買い、ほぐして使っていたというエピソード。実に涙ぐましい。

ここまで読んで、私にもよみがえる記憶があった。

1990年代後半、父の仕事で私達一家はドイツに住んでいた。ホテル日航のある町で、その周辺には日本食レストランや食材、本を扱う店が数件営業していた。現在では考えられない商売だが、当時は日本のテレビ番組の録画を3週間遅れで仕入れていたビデオレンタル屋が繁盛していた。私は「ロングバケーション」を、この店で借りて見た。

食生活も、今でこそヨーロッパ有数のラーメン激戦区となるほどの根付き方だが、当時は日本人が多い地域とはいえまともな醤油ですら手に入りにくかったことを覚えている。

そんななか、時折キッシュなどのドイツ料理も食卓に並んだものの、母の料理はやはり日本食だった。思い返せば、大根もごぼうもサツマイモもない中で、よく毎日のごはんとお弁当を仕立ててくれていたものだと思う。台所も、ガスはなく電気コンロのみで、住み始めた頃の母は火加減に苦労していた。

一番の高級食材は冷凍うどん。たまに母が町に出かけた折、日本食材屋で買ってきてくれていたが、せっかく行っても売っていない日もあったというのがそのスペシャル感を増幅させていた。今でも実家の冷凍庫に冷凍うどんが必ず入っているのは、きっとこの頃の名残りだろう。

うどんを自由に使えなかった母が編み出したメニュー、それは焼きうどん風スパゲッティだった。焼きうどんの麺をスパゲッティに変えたものである。和えられたり煮られたりではなく、炒められるスパゲッティというのは当時の私には新鮮で、またソースを吸収しない麺が不思議な食感を作り出した。

これを初めて食べた時、自分は確かに母国から遠く離れたところにいるのだと小学生ながらに実感した。ドイツのあっという間に固くなる黒パンを削って母が作っていたパン粉とともに、私の記憶に最も色濃いドイツでの母の料理である。

3ヶ月遅れで父が持って帰ってくる日経新聞を片手に、3週間遅れの日本ドラマを見ながら焼きスパゲッティを食べ、日本のイメージを確かめる日が確かに私にもあった。

その後、2度の海外在住を経験した。今思うことは、YoutubeとKindleがあり、日本の食材の流通が増えた今でもなお、”Bollywood Kitchen” は世界中で健在だということである。

(モンゴルの田舎で作ったカレー。塊肉しか買えないので、細切れにするのが大変)

岡本

世界より:行き先の探し方2018/1/11

どこかに行こうと思った。

荷物軽く行きたかったのでヨーロッパは止め、盛夏の南半球も避けて、とりあえずバンコク発着のチケットを取ることにした。

関西国際空港には格安航空会社(LCC)のSCOOT(スクート)が発着していて、気軽な値段でバンコクに行ける。Airasiaも同様の格安路線だが、今回は乗ったことのなかったSCOOTを選んだ。

バンコクは東南アジアのハブなので、そこからまた各地にLCCが網の目のように飛んでいる。さてバンコクからどこに行くか。空港同士のLCCネットワークを一覧にしているウェブサイト tavii を見る。

航空会社にもリンクしているが、ここは情報が古いことあるので、国だけ見るおおざっぱな使い方をする。

ヨーロッパ、南半球、東南アジア以外では…

オマーン?

どこ?

アラブ首長国連邦(UAE)の隣。UAEはドバイに行ったことがあるが、オマーンのことは何も知らない。隣ということすら気付かなかった。

オマーン。一体何があるのだろうか?

ググる。

ガイドブックを立ち読みする。

海と砂漠と岩山があるらしいことはわかったが、正直それ以上はよくわからない。これというものはないのか?それとも知られていないだけなのか?

天気は?

1月、なんとベストシーズン。天啓か。

Goね、Go。

奇遇にもオマーンには、青年海外協力隊の同期で、今首都マスカットで日本語教師をしているYちゃんもいる。連絡してみよう。

バンコク→マスカット便。
Googleで調べる。

オマーン・エアが直行便を運行している。しかし、オマーン・エアのウェブサイトを見てみると、曜日によって値段が全く違う。安い日を待って、それまでバンコクだけで過ごすのはもったいない。

もう1ヶ所。
できればバンコクとオマーンの間。
LCCが発着している、リーズナブルに行けるところ。kayakというサイトで経由便を見る。

また、同じkayakでオマーンを出発地点、行き先を「どこでも」に設定して検索してみる。

東南アジアと中東の間に立ちはだかるインド。どうやらここを経由していくのが良さそうだ。LCCも、さまざまな便が網の目のように飛んでいる。インドは現在、日本人のみ、大きな空港でのビザ取得が可能である。ありがたし。

距離的に、南インドが無駄がなさそうだ。チェンナイ便にしよう。16年ぐらいぶりのチェンナイ。バンコクも15年ぶりぐらいだ。何が変わって、何が変わっていないんだろう。

バンコク→チェンナイ→マスカット。

合理的なルートだ。
と満足しつつ、
なんだそれ。
と突っ込みつつ、
ヤバイ面白い。
と高揚する自分がいる。

未知すぎると逆に惹かれる。知らない土地の面白さは、自分が経験したことが、先入観なくイメージになっていくことだ。つまりは楽しみなのだ。

いつかの日記:M君とエチオピアとコロなるもの2018/1/5

M君は大学の後輩である。現在は関西の大学の院生で、文化人類学を専攻している。

私が青年海外協力隊員としてモンゴルに赴任した時、いちはやく訪ねてきてくれたのがM君だった。交換留学先のフィンランドに向かっている途中に寄ってくれたのだ。1週間ほど草原で過ごし、ウランバートルからシベリア鉄道に乗って北欧へ旅立っていった。

あれから4年近く経ち、今M君はエチオピアの、移動しながら暮らす職人について修士論文を書いている。遊牧民の職人バージョンである。

エチオピアで数ヶ月フィールドワークをして帰国したM君を、ある日大阪のモンゴル料理屋に誘った。

– なんでエチオピアをフィールドにしたの?

「『移動する職人』に興味があったんです。定住ではない生き方を考えたくて」
「それで先行研究を調べたんですけど、あんまりなくて。ベトナムとペルーと、あとエチオピアぐらいだったんです」

– 散ってるね、不思議。

「指導教授のフィールドがエチオピアだったので、まずはそこをと思って」

– 具体的にはどういう職人さんを調べたの?

「鍛冶屋さんです。今はもう移動してないけど、昔やってたとか、代々やってたっていう人達に話を聞いたり」

現役で移動している職人は、残念ながらもうほぼいないらしい。

– その鍛冶屋さん達って、移動しながらどんなものを作るの?

「それこそ何でもですよ。オーダーを受けて作る感じなので、草刈り鎌から包丁まで何でも」

– そういえばIさん(共通の知人)が、M君に見たことのない形の草刈り鎌を見せてもらったって言ってたよ。

「そうですねー、やっぱり刈るものが違うと形も変わりますよね」
「あ、忘れないうちにこれ、お土産です」

そう言って出してくれたもの。

– これは?

「コロっていう、エチオピアのスナック菓子です。コーヒーとか飲む時のつまみ的な。大麦とピーナッツを炒って、塩と唐辛子と、調味料で味付けしたものです」

– 調味料?

「いろいろ入ってるんですが、人や家によって、それぞれ調合が違うんですよ。秘伝ですね」

– へぇえ〜!こんな貴重なものをもらってもいいの?

「もちろん」

– ありがとう!

その場でさっそくいただく。聞いただけでおいしそうで、見るからに止まらない系のコロ。実際はどうだろう?

– うまーーー!!!
– ‎なにこれめっちゃおいしい!!!

「良かったです〜」

– こんなシンプルなのに。ほんとおいしい。

「やっぱみんなちょっとずつ味が違うので、自分が気に入ったのを大量買いしてきたんです」

– そうなんや。良い舌を持ってるね(笑)

研究対象としては、エチオピアは修士論文をもっていったんおしまいというM君。でも、コロをかじりながら研究した鍛冶職人の話、私はまだまだ聞きたい。

いつかの日記:神主の弟の話2017/12/27

「平和を愛する人に」との願いで名付けられた弟は、長じて神主となった。現在は大学で研究をしているため現役ではないものの、同級生達の実家の神社が忙しい時は手伝いに行ったりしているようだ。この年末年始も帰ってこない。

家に、宗教に通じている人間がいるのは悪くないことだ。各種儀式や御札を置く場所など、神道に関してわからないことがあれば、聞けば何でもすぐに教えてくれる。

しかも説明が上手でわかりやすいため、親戚の年配者達に絶大な人気を得、神道に関するアドバイザーというポジションを不動のものにしている。妹達の結婚式でも、神社選びから式での誓詞の読み方まで弟は非常に頼りにされた。他の宗教にも知見があり、しかも古文書まで読めるため、一族からの信頼は篤い。

ある時叔父が言っていた。

「家に一人、悠久のことをやっている者がいるというのは安心感があるな」。

宗教の核心はこういうことかもしれない。

もちろん、宗教でさえも時代ごとに移り変わっていくものではあるが、それは永遠性への気持ちの持ち方、祈り方の変遷ということのように思う。

うちは神社の家系ではない。にもかかわらず弟が神道学部に進学した時は私を含め親戚中がびっくりしたが、宗教について確かな知識と経験を持ちつつ、客観的にアドバイスをくれる彼に皆とても感謝している。こういう社会貢献の仕方もあるのだ。

岡本