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いつかの日記:反と坪とモンゴル力士

Kさんとお茶をしていた。大先輩のKさんは元建築士で、現在は江戸時代から続く家業の計量器メンテナンスに従事されている。

どのような話の流れだったか、単位の話になった。私は当時みかん畑の手伝いに行っていたのだが、農家さんやパートのおばちゃん達の「あの畑は2反ぐらいやな」というような会話にさっぱり実感を持てずにいた。普段から畑にいるわけではないので当然といえば当然なのだが、一方で、ヘクタールや平方メートルなどの世界共通の単位もあるにもかかわらず、農業では反が一般的に使われることに興味も持ったのであった。

この話をしていて思い出したのが、モンゴルでの経験だった。ある協力隊員のご家族を、著名なチベット仏教寺院にご案内した時のことである。

この一家はお寺さんであった。隊員の父上や叔父上は全員僧侶で、叔母上も違うお寺に嫁がれていた。

この方々のご案内は大変面白かったのだが、記憶に残っていることのひとつに単位があった。寺院の面積を聞いてこられたのである。

– 100m四方の正方形の土地です。

「坪でいうと?なんぼや?」
「3000ぐらいか」
「ということは○○寺がxx坪やから、その△△倍やな」
「広いなー」

このような会話がお坊さん達の間で交わされた。彼らにとっての基準は坪であり、広さの理解はなじみ深い寺院との比較でなされるのである。

どれだけメートル法が普及していても、単位とはコミュニティによってさまざまであり、身体化されたものがあるのだと感じた、という話を私がしたところ、Kさんは突然言った。

「関係ないかもしれないんだけど、俺さあ、この前のモンゴル力士の事件で、ちょっと思ったことがあって」

元横綱の日馬富士関が酒席で同じモンゴル出身の貴ノ岩関に暴力を振るい、けがをさせた2017年秋の事件である。

「不思議に思ったんだけど、なんで彼らそもそも、あんな狭いところにぎゅうぎゅうに座ってたわけ?」
「あんなに体大きいのにさあ。カラオケだろ、別に広い部屋が借りられないなんてこともなかっだろうに、なんでそうやってゆったり座らなかったんだろう。距離が取れてれば、すぐ暴力なんてことにはならなかったんじゃないのかなって」

この指摘を聞いて、私は愕然とした。

モンゴルでは、人と人の距離がとても近い。家には始終人が出入りし、来客も多い。旧正月などの祝日には、何十人もの人々がひとつのテント式住居「ゲル」の下に集まったりもする。椅子代わりのベッドに、皆詰めて座る。そして酒を回し飲みする。つまり、ぎゅうぎゅうというのは当たり前のことなのである。

それがモンゴルでの、人と人との間の距離感なのだ。日本とは違う距離感、すなわち「単位」がそこにはある。

モンゴルでの習慣が当然のものになっていた私にとって、この視点は目から鱗であった。単位は文化なのだ。

広い部屋に通されていても、きっと彼らは詰めて座っただろう。離れて座ること、目上の人の話を聞かないことは失礼に当たるからだ(だからといって日馬富士の暴行は正当化されないが)。

そこにはモンゴルの論理と単位が持ち込まれている。時系列的な真相解明がもちろん第一だが、そこにこのような背景がありうることは、事件の解決にとって重要なことなのではないかという気がするのである。

建築と秤という、単位に関わるお仕事をされているKさんならではの視点だったと思うと同時に、自分がすでに知っていると思っていることを自明としないという戒めも頂いた。

互いの単位を認識したり、揃えたりすること。

まことに貴重なお茶会であった。

岡本

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