田辺には「長野」という地区がある。山のほう、梅林のある地域で、季節になると満開の梅でそれは見事だ。「熊野早駈道」という、熊野古道に合流するハイキングコースの一部にもなっており、みかん畑や梅林で客を楽しませてくれる。
この長野の奥のほうに、おいしいパン屋があるという情報を、友人が聞きつけてきた。どうやら「アンパント」というお店らしい。
地図で調べてみる。確かになかなか奥だ。
Facebookのページに、営業カレンダーが掲載されている。「○のついている日は休み」と書いてあるが、○だらけである。数えてみると、3月の休みは17日間あった。こんな山奥にあって、月の半分も営業していないパン屋とはいかに。
不思議になって、友人と行ってみることにした。ほとんど散ってしまった梅林を横目に、細い山道を上がっていく。
「これ対向車来たらけっこう怖いね…」
「運転に自信ないと、なかなか住もうってならなさそう」
「まだまだ登っていくみたいよ」
こんな話をしつつ、ようやく到着。お店の前に広がっていたのは素晴らしいパノラマだった。
「これは…すごいね」
生憎の天気の日だったが、上方に靄がかかり、それは見事な眺めだった。晴れの日にはさぞかし。
普通の一軒家のような門構えのお店。
ガラガラと引き戸を開ける。
そこには確かにパン屋があった。オーナーの女性が迎えてくれる。
午前中だというのに、もうほとんど残っていない!早朝からこの山道を上がってくる人がたくさんいるとは。
イートインスペースもあり、コーヒーなども飲めるようだ。
上がらせてもらって、奥の棚を見てみた。小麦粉など、パンの材料が販売されている。
− パンだけじゃなくて、材料も販売されているんですね。
「そうなんです。私元々、パン屋さんじゃなくてパン作りの先生で」
「パン屋はやったことなかったんですけど、この場所を作った時に、パン教室がない日をパン屋の日にしたんです」
− オープンしてどのくらいになるんですか?
「2年ぐらいかな。元々、田辺のシータス(さまざまな講座を開講している施設)で8年ぐらいパン教室をやっていて」
「それで、いちいち材料を持っていくのが大変になって、拠点が欲しいなと思って場所を探したんです。シータスでの生徒さんが、引き続き教室に通ってきてくれたりして。この家は空き家登録に載っていて、すぐに気に入って決めたんです。あと、中を改装して」
「もう眺めが素晴らしくて。畑や梅林もですし、天気のいい日は白浜や田辺湾まで見えるんですよ」
− それは晴れの日にまた来なくては。しかし今のお話だと、元々田辺の方というわけではないのですね。
「私は兵庫県の三田なんです。そちらにも家を残していて、そちらでも教室をやっているので、行ったり来たりしています」
− そうでしたか!営業カレンダーを見た時、どうしてこんなにお休みが多いんだろうと思ったのですが、二拠点生活と伺って納得しました。
「実は大阪の製パン学校でも講師をしているので、三拠点なんです。バタバタしてしまって」
− それはお忙しいですね。また事前に計画して、パン屋さんの日、できるだけ早くに伺います。
こんな生活をされている方もいるのだ。山の中であっても気にせず、気に入ったところに拠点と職場を構える。都会での仕事のあと、この景色に戻ってくる。素敵だ。
アンパントに限らず、和歌山では山奥に店を構えるパン屋さんが多いような印象がある。
紀美野町のドーシェル、龍神のもんぺとくわ、熊野町のむぎとしなど、ぱっと思い浮かぶだけでもいくつもある。ドーシェルなどは本当に行くのが大変で、連れていってくれた友人はもう自分ではあそこには運転したくないとすら言っていた。そのような場所にあるにもかかわらず、店はいずれも繁盛しており、遠くから客が押し寄せている。三重や大阪ナンバーの車が駐めてあるのもよく見かける。
わざわざ行かせるほどの味であることはもちろんだが、店からの景色やそこまでの道程、そのすべてが、人をそこに行かせるファクターなのだろう。体験としてのパン屋。遠いからこそ、できることもある。
「遠いから、行く」という行動が実現している和歌山の山の上のパン屋。これからも動向が楽しみである。
岡本