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いつかの日記:異国で逝った友人のこと

友人が異国で逝ってしまった。

アフリカで帰らぬ人となった。

彼は私の青年海外協力隊の同期である。

協力隊は年に4回派遣があるが、その一回一回は「隊次」と呼ばれる。ひとつの隊次は更に、派遣国によって長野と福島の訓練所に分かれ、70日間缶詰で語学などの特訓を受ける。いろんな国に行く人達が共同生活を送り、励まし合いながら渡航への準備を進めるのだ。

派遣人数は、隊次によって幅がある。一般的に、春に訓練を始める1次隊が最も多く、福島訓練所の場合は200人近くが集まる。反対に、最も少ないのは冬に訓練する隊次である。

そのなかでも、更に歴代最小人数だったのが私達だった。安達太良山の麓で、雪に閉ざされた生活をともに乗り越えた私達の隊次はたった56人しかいない。

亡くなった彼 – G – はアフリカ、私はアジアと行き先は違うが、56人で70日間過ごすということに、地域での分類はあまり意味がない。新しい言語を短期間で習得せねばならない必死さが共通点である。

Gは男性としてはとても小柄だったが、とてもお洒落で、よいサイズ感のものを上手に着こなしていた。聞けば女性物の古着などを探しているということで、その工夫にみんなで感心したものだった。

南国出身の明るいGは皆に好かれた。フットワーク軽く、いつも人を笑わせた。普通にしてれば男前なのに、写真写りはいつも変顔だった。訓練終了日に、ハンカチをプレゼントしてくれた優しい人だった。

なぜか、気をつけろと言われた病気にいつもいち早くかかった。訓練中にインフルエンザになった時には寮の使われていない棟に一週間隔離され、ベッドからSkype越しに授業に参加していた。アフリカでもよく病気にかかったが、幸い同じ国に派遣された同期に薬剤師がいたため、彼の命は守られていた。

協力隊の任期終了後、Gともう一人の同期 – M – は、派遣先と同じ国で事業を展開している日本企業に就職し、再び現地に赴任した。

事故は起こった。

現代日本では起こらないような事故で、彼は突然、一人逝ってしまったのである。

Gの死を私達に知らせてくれたのはMだった。彼は、アフリカから日本までGを連れて帰ってきてくれた。気丈に状況を逐一報告してくれ、いろいろな手配をしてくれた。

訓練の時から今に至るまでずっと一緒だったGを急に失い、一体どういう気持ちでMはアフリカからの長旅をしてきたのだろうか。一緒に海外生活へのスタートを切った2人。Gは逝って航空貨物となり、Mは生きて乗客となった。「搬送先」はGの実家。なんという心労。

Mが一度だけ、同期に報告をしてくれている時に「あああ」と書き込んだ。すぐに消去されたが、私はその一瞬を見てしまった。そのあと、書き込みは「前に進もうとしている」となった。

Mが投稿してくれたGの遺影は男前だった。

岡本

読みもの

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